Interview

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佐藤真左美さん/バレエ教師/日本佐藤真左美さん プロフィール松山バレエ学校、松山バレエ団を経てスターダンサーズ・バレエ団「ジゼル」で主役プリマバレリーナとしてデビュー。
1992年文化庁在外研修員舞踊派遣をきっかけとしてオーストラリアバレエ団(The Australian Ballet)へ正式入団、クラシック作品で主役・ソリストを踊る。
帰国後は、スターダンサーズ・バレエ団のプリマバレリーナとしてピーター・ライト作品、バランシン作品などの多くの作品で主役を務める。
2002年メルボルン大學ビクトリアカレッジへバレエ指導者教員免許のため再び留学。
主席卒業と同時に永住権獲得。
2003年より本拠地をメルボルンに移しクラシックバレエ専門指導教師としてビクトリアカレッジ・セカンダリースクール、ナショナルシアターバレエスクールでのクラシックバレエ指導、シアトリカルダンススクール・PSA(芸能・映像プロダクション)のコンクール指導、コンクール作品振付を担当する。
2009年よりナショナルシアターバレエスクール校長補佐としてバレエ学校ディプロマ校、ジュニアスクールの両校のバレエ指導者として公演活動を統率、全作品の振付補佐として働く。
2014年より日本での指導者としての活動も開始。
年に数回の渡豪を繰り返しながらバレエ指導者として活動している。
-オーストラリアに最初に行かれた経緯を教えていただけますか?
一番最初は高校3年生の時に在籍していた松山バレエ団から豪日交流基金による交換留学奨学金制度を頂き、Victoria College of the Arts School of Danceに6週間ほど行かせていただきました。
その後、移籍したスターダンサーズ・バレエ団から在外研修員の派遣として研修に出して頂き、
The Australian Balletに、研修後には正式に契約を頂き入団しました。その後は再びVCAの大学院に
入学してクラシックバレエ指導者コースDIPLOMA資格を修得しメルボルン・ナショナル・シアター・バレエスクールで指導者として就職、永住となりました。
-お一人で行かれたのですか?
佐藤真左美さん/バレエ教師/日本はい。最初は全くの一人旅でした。松山バレエ団での海外公演は頻繁にありましたが、一人での海外は初めてでした。メルボルンでは同じVCAのバレエコースの1年先輩のお宅にホームステイでした。
VCAのバレエ科の1年生の授業に参加しました。クラシック・バレエ、ポアント・クラス、コンテンポラリー、キャラクター、ボディコンディショニング、など実技のクラスはすべて受けました。それから、
VCAでの舞台活動もあったので時々リハーサルにも参加させていただきました。メルボルン近郊でのパフォーマンスやメルボルン市街での小公演もありました。レッスン、授業、リハーサルにとても忙しいけど楽しい時間でした。バレエ学校の生活(授業としてレッスンがある)の経験ができたことは信じられないくらいに貴重で大切な経験となりました。
ホームステイは二つのお宅にお世話になりました。3週間ずつだったのですが、最初のお宅はメルボルン中心にある大学から1時間半はかかる遠方でした。大學の開始は朝の8時半、8時15分にはスタジオに入るので毎日5時おき、6時過ぎには出発最寄駅まで車で20分、そこからローカル電車で1時間ちょっと、大學に8時ちょっと前にやっと到着。毎朝必死の登校でした。しかも6月7月の時期〔真冬〕だったので、朝はまだ暗く、午後は4時過ぎには暗くなり、野生のカンガルーの群れが夕方はよくみることができました。〔笑〕
英語も本当にカタコト程度でしたから、ホームステイのお宅にいてもなんだか寂しくて、早く帰りたいと毎日思っていました。メルボルンの最初の印象はあんまり素晴らしいものではなかったですね。
その頃は、オーストラリアが自分のバレエ人生を大きく開花させるようになることも、第2の故郷となるとは思ってもいませんでした。〔笑〕
16歳からバレエ団活動していた松山バレエ団を退団して21歳の時にスターダンサーズバレエ団に移籍をしました。移籍してすぐにプリマでデビューさせて頂き、その後に太刀川瑠璃子先生から在外研修員のお話を頂きました。再びオーストラリア!!メルボルン!!The Australian Ballet!!
「またオーストラリアだ!!!」と苦笑しました。
その頃の私は研修先となるThe Australian Ballet(オーストラリアバレエ団)についてあまり詳しく知りませんでした。高校生の頃に彼等が日本公演に来た際に公演を見に行ったという程度の知識しかありませんでした。研修先がどのくらいの大きさのバレエ団であるかも、どのようなレパートリーを持っているのかも知らないまま、のんきな気持ちで研修期間を無駄にしないように頑張ろうと再び渡豪しました。
まかり間違っても自分がカンパニーの一員として毎晩舞台で踊るようになるなんて爪の先も、想像もしていなかったですね。
1992年9月22日が私のカンパニー初日でした。最初の日は挨拶程度で後はカンパニーの活動を見学させて頂けたらいいなあ、と期待と不安の初日でした。カンパニーは立派は高層ビルディングで、バレエ学校を併設しての素敵な環境に、何も知らずにやってきてしまった自分を恥じたものです。〔笑〕本当に素敵な建物でスタジオは8つもあって、今までみたことないくらい大きなスタジオでした。廊下を歩いている団員はどの方も美人でかっこよくて、ジャージ姿でのこのこと現れた自分がなんだかとっても幼く感じたのも本当です。
初日は10時半からのクラスに参加し、その後は次にシーズンの「じゃじゃ馬ならし」のリハーサルを見学していました。スタジオの隅に座って、目の前でまさに行われているプロダンサー達のリハーサルにかぶりつきでした。ダンサー達は自分の出番でない場面になるとかわるがわるに自己紹介を兼ねて話しかけてくれました。私のカタコト英語も一生懸命に聞いてくれたことを今でも覚えています。
オーストラリアでの生活は、私にバレエダンサーとしての成長だけでなく、人間として大きく成長することをさせてくれた素晴らしい時間でした。カンパニーの仲間やオーストラリア人の友人から学んだことは沢山ありすぎて、一言ではいいきれませんが、彼らから学んだことでひとつあげるとしたら「人を大切にする、人を好きになる」この気持ちが私をダンサーとしても大きく飛躍させてくれた一番と思っています。
-どれくらいの期間行かれたのですか?
佐藤真左美さん/バレエ教師/日本The Australian Ballet には1992年から3年半ほど在籍しました。
英会話の力も最初は本当に乏しくて現地の人の言っている意味が全然分からなかったのですけど、カンパニーの友人やスタッフが本当に手助けしてくれて、なんとか話せるようになっていきました。それから、日本人は私一人(外国人も少なかったので)だったので、いやでも英語で話さないと自分の気持ちを相手に伝えられないので必死に話すようになりました。
最初の年の12月の年末のインタビューの時に芸術監督のマイナ先生から「正式に契約をして入団をしてまさみはもっともっとここで踊ることが幸せになることだ。あなたに入団する気持ちはありますか?」
と、お話をしていただきました。びっくりして、本当に椅子から転げ落ちるくらいに驚いて、自分の耳を疑いました。その頃にはだいぶ英語も慣れていたので、聞き間違いではないと思いながら。凄く驚いている私にマイナ先生は英語が通じていないのかと、再びゆっくり話してくださいました。ちゃんと理解できたと答えて、「非常に光栄思います。私はここで働きたいです」と答えたことは今でもしっかり覚えています。ありがとうございます、ありがとうございます、と何回も先生に言ったのも覚えています。
自分が海外のバレエ団に入団して、そこで契約をして働くようになるなんて思ったことも、夢にみたこともなかったんです。海外のバレエ団なんて自分にはエベレストの頂点よりも高いほど遠い世界と思っていたので、驚き仰天でした。嬉しいという気持ちはしばらくしてから気がついて、そうしたら、なんだか
背筋がぞくぞくっとしたのも覚えています。
外国人ダンサーとして契約するために、ビザ(ワーキング・ビザから開始しました)申請が大きな作業でした。
オーストラリアのダンサー組合は非常に力が強く外人である私を認証してくれるかどうかが非常に難関になるとマイナ先生が説明してくれました。
外国籍のダンサーに働く権利を与えることになるのです。「外国人ダンサーを一人雇うことでオーストラリア人ダンサーが一人職を失う。自国のダンサーを大切にあるべきだ」というのが組合〔ユニオン〕のもっとうでありました。
芸術監督のマイナ先生とバレエ団のジェネラル・マネージャーのイアン氏が、年明け早々からビザを申請する作業を開始されました。在外研修員の私は正式団員ではなくトレーニング契約(トレーニーシップ)であったので、ある程度より上の配役にはいきなりは入れず、いつも第3,4キャストもしくはアンダースタディーでした。ですが、マイナ先生の配慮と策略で、常に若手新人のアンダースタディーであったり、怪我から復帰したてのダンサーの第2キャストであったりして、準主役やソロの役を私が自動的にしかも常に踊るようにキャストを組んでいました。深いことは何も知らずに何時もチャンスに恵まれると思って、自由気ままに思いっきり踊っていた私でした。
ジェネラル・マネージャーのイアンの手腕で、私という日本人が常に舞台で目立つ場面でソロを踊ることで、ビザ申請の重要な鍵となる「価値」「評価」「キャリア」の材料をどんどん作っていたのです。つまり、外人である私が舞台で踊ることでどのくらいカンパニーに利益をもたらすのか、どのようにオーストラリア人の観客を魅了するか、どのくらいの利益がバレエ団に起きるか、これらがとても重要であるからでした。
申請から7ヶ月でワーキング・ビザ申請が認証されて、私はカンパニーと正式契約をしました。新たなるメンバーとして再び紹介されて、契約はコリフェからでした。
契約して最初の仕事はアメリカ公演でした。オーストラリア人振付師のスタントン・ウエルシュの新作のキャストに選ばれ、ツアーの間も毎晩舞台で踊りまくる日々でした。The Australian Balletは常に国内外をツアーしているカンパニーです。クリスマス休暇と7月のミッドイヤー休暇、2月、8月のリハーサル期間以外は毎晩本番がある多忙なカンパニーです。日曜日は休みでしたが、いつもリハーサルと舞台に追われているという生活でした。カンパニー以外の人間と知り合うこともなく、常にカンパニーの仲間と行動を供にしていました。仲間意識が強く、お互いを助け合い、ライバル心も旺盛なオージーのダンサー友達でしたが、休暇の日に集まったり、お互いの家族と一緒のパーティをしたりと家族生活も大切にする人達ばかりでした。ダンサー仲間は、母国を離れて一人で踊っている私の家族のことも常に心配してくれて、日本公演に行ったときはまるで自分の故郷に帰るように、私の家族へのオーストラリア土産とかを選んだりしてくれました。
「家族」、「自分の生まれた国」を意識するようになり、いつしか母国のあることをとても大切に思うようになっていったのも彼等の影響であると思います。
-なるほど。一度戻って来られて、今度は大学の方に行かれる?
佐藤真左美さん/バレエ教師/日本そうですね。
-そこで、またなぜオーストラリアを選ばれましたか?
佐藤真左美さん/バレエ教師/日本たまたま、そうなっちゃったんですよ。(笑)
The Australian Balletを退団して東京の古巣であったスターダンサーズ・バレエ団に復帰してからも、オーストラリアバレエカンパニー時代のお友達とずっと文通したり、時々電話をしたり、ずっと繋がっていました。私が、バレエ指導者コースで勉強したい、指導者資格の勉強をしたいと思うようになったのは、オーストラリアバレエ団の友人からの強い影響を受けたからです。特に仲良しだったプリンシパルの友人たちが、自分達の将来を考えて通信教育でバレエ指導者コース、アーツマネージメントなどを勉強したり、自主オフを取ってのコースや大学院に行ったりとか。
彼等から学んだ考え方ですが、ダンサーとしての自分の人生があり、そして、ダンサー人生に終止符を打ったときから新たなる次の人生があるっていう考え方です。自分の人生を楽しむことが一番の人生である。
特に仲良しであった友達のDavid McAllister(現 芸術監督)が自分の将来のために、アーツマネージメントと教師養成コースの二つのコースをシドニー大學の通信教育でやっていたのです。
Davidとは何かあると電話で話す機会が多く、彼から勉強の多忙さや面白さの話を聞いているうちに非常に興味が沸いてきました。その頃の私はほとんど毎日のようにバレエ団のスタジオで指導の仕事をしていたので、指導者としての勉強をしてみたいと次第に思うようになりました。
少しずつ貯金を始めました。海外へ再び勉強で飛び立とうというようなはっきりとした目的はなかったのですが、ただ漠然と何か勉強するときの準備を始めました。
その頃のスターダンサーズ・バレエ団は英国サー・ピーター・ライト氏の作品を上演する機会が多く、私も主役を頂き、ピーター先生にも沢山のことをご指導頂きました。
ピーター・ライト先生からは英国ロイヤル・アカデミー・オブ・バレエを紹介して頂いていました。
「勉強したいなら、もう絶対何の問題もなく入学を許可するよ。」と。
ですが、英国は学費も生活費も日本の3倍位以上であったため、「これはちょっと私の今の貯金じゃあ無理だ」とあきらめました。
そんなふうにあきらめたはずだったのですが、ふっとオーストラリア時代の友達に相談したんですよ。
DavidやVicki Attardに相談したら「そこまで高くないよ。オーストラリアは。」と早速いろいろとリサーチを開始してくれたんです。The Australian Ballet Schoolもちょうど指導者コースを開始していたので、早速調べて。ところが、私が行こうと思ったその2002年の時にはたまたま今度は開校しないしないと言われて。やはり運がないのかなと今度こそあきらめていたのですが、そんなときに「ヴィクトリアカレッジはどうかしら?」とThe Australian Ballet方から連絡がありVCAカレッジを紹介してくれました。
行き先ができたとなってからは、あっという間に入学手続きまでこぎつけて、最後にTOEFLを受けて
学生ビザを申請してと、行動力の塊となっていました。笑。
-その後現地のいくつものバレエ学校を教えるようになったんですね?
佐藤真左美さん/バレエ教師/日本はい、VCAの指導者コースに在学中に現在の勤務先のナショナル・シアター・バレエスクールの
ディレクターから連絡があり、クラシッククラスを教えるようになったのがきっかけでした。校長自身から電話をもらい、最初のクラスのときに彼女が私のクラスを見学して、その後にインタビューで。
内心すっごく心配していたのですが、「実に丁寧に指導するのでぜひクラスを担当してほしい」と。ほっとしたのと、仕事ができるのが嬉しかったです。VCAでも教育実習で週にいくつかクラスを指導し、毎週金曜日はナショナル、週末はコース同級生のスタジオで教えをしていました。ナショナルやVCAからは大学院が終わっても教えに来て欲しいと話をされるようになっていました。大学院の成績も優秀であったので、思い切って永住権を申請してみたらとVCAの校長から話をされて、思い切って挑戦することにしました。それまでの私からは考えられない行動でしたが、オーストラリアの大地が私に自分で自分の生きていくための資格をとるという大きな作業に挑戦する意欲をくれたと思っています。
永住権は1月に申請して8週間足らずで認証されました。オーストラリアだけでなくそれまでに私の踊りを指導してくれた世界中の先生方や評論家の方からのダンボール箱いっぱいの沢山のリファレンスの手紙とサインはいまでも私の宝物です。
元オーストラリア・バレエ団、VCA大学院出身という肩書きと日本人であることが、ダンス関係の主催者からとても好感を持っていただけて、数箇所のバレエスタジオ、シアトリカルスクールから担当クラスの仕事のオファーがありました。決して高額でない指導料金でしたが、私はどんな教室でも嬉しくて嬉しくて仕事をうけては教えに行きました。メルボルンから高速列車で2時間のBENDIGOまでも指導に行きました。BENDIGOのダンススクールは結局9年近く指導しました。
-例えば、オーストラリアでの教え方と日本の教え方でなにか違いがあったら教えてください。
それは凄い違いがありますね。
一番の違いはシラバス教育の方法ですね。英国RAD, ワガノワ〔ロシア式〕、チェケッティ(イタリア)
フレンチメソッド、ヴルノンヴィル、といくつかのバレエメソッドがあります。年齢に応じた指導法で、段階を経て確実に成長させることが目的です。ただ順番ややり方を指導することだけではなく、踊るための知識をちゃんと生徒に植え付けることができ、段階を経ての技術指導法です。
私自身はバレエ学校教を受けたことはなく、シラバスレッスンも、自分が何メソッドであったのかも、
自覚せず育ってしまっていたので、シラバスにのっとっての指導クラスを担当になったときは、大学院のコース勉強と同じくらいにいつも予習復習をしての毎日でした。指導内容を間違えることなく正確に生徒に指導することはもちろん、彼等にレッスンを楽しませる、表現する時間を一緒に共有するといったように日本での指導とは全く違う環境です。
オーストラリアは「褒め教育」が主流のため、これについても勉強しました。「褒め教育」はただ褒めることではありません。褒めるに値することが何かを教える、褒められることの大切さや勤勉が必要なことを子供たちに実感させることが大切なんです。とはいっても、これも日本とは全く違うので、最初のころは失敗も、誤解もたくさんしていました。笑。
褒めるときはほめる、叱るときは叱る、注意するときは注意する といったようにいつでも生徒達がスタジオの中で先生に何を言われているのか、何を自分達がしなくてはならないのかと気づいていくようにするための方法ですね。無言のままでの納得や、雰囲気だけでのやり取りはしないことで心を通わすことができるようになることを学びましたね。
生徒からは反応があるのが当たり前のようになっていますから、時々日本で講習会とかレッスンをみるとなんだか物足りなくなっていますね。それから、注意したことが出来たり、出来なかったりしますよね。オーストラリアだと生徒が「どうしてだろう?」と質問もするし、注意を求めてくるんですよ。体格の違いや癖のあるないで、生徒一人一人が違いますから、一人一人に対応するのは結構大変ですが、
彼等が休み時間やリハーサルの合間に質問してくれば、一生懸命にこちらも答えるようにします。
コミュニケーションがいつもあるので、生徒との温度がいつも暖かい気持ちでいられます。
日本の生徒さんたちはあまりコミュニケーションになれていないので、(スタジオの中ではお話をしないというのでしょうか)こちらの質問に声を出して答えることも少なく、生徒さんからの質問を受けることも少ないので、時々ちゃんと理解してくれているのかなと心配になりますね。
ナショナルの校長先生は日本人生徒をとても高く評価していますが、コミュニケーション、アピール、
表現方法については非常に細かい指導をオーストラリア人の生徒よりもしますね。やはり、苦手というか環境が違うことが一番の原因でしょう。
-そのコミュニケーションを積極的にしていかないと、海外では順応できないってことですよね?
そうですね。コミュニケーションとまでもいかなくても、日常生活をしっかりと送ることがとても大切です。私流ですが、母国語である日本語でしっかりとした挨拶や会話、言葉、常識を身につけることが違う言葉を話す人とのコミュニケーションを早く持てる方法だとしています。言葉は違っても、言葉を口から出すことは一緒です。母国語でもその言葉が口からでないようでは違う国の言葉をいきなり発声するのは難しいと思います。
バレエ留学であるからバレエという共通があるから言葉はなんとかなる。。。。と考える生徒さんも時々いますが、バレエ留学であるからこそしっかりと言葉を勉強して理解することが大切とお話することが多々あります。西洋の伝統芸術であるクラシックバレエの持つ表現の世界、観客を魅了する空間芸術こそ
踊る側と創る側のわかりあいと認識がなくてはなりません。それぞれのダンサーの持つ個性や性格はその人の踊りににじみ出ることがほとんどです。ですから、ダンサー自身が何を思っているのか、何を表現したいのかを自覚するためにも、指導者や振付師とのコミュニケーションは重要な手段です。無言では相手も自分も見えなくなってしまいます。
私自身、非常に表現力に乏しく自分を出すことが苦手でした。本当にかわいそうなくらいにひどかったんです。ですから、表現の苦手な生徒をみると非常に親心がわいてしまいます。私自身、気がついたら踊ることは何かを表現すること、というふうになっていました。気がついたらというのはとてもあいまいな言い訳ですが、本当です。私に表現する自分を知るきっかけをくれたのはオーストラリアバレエ団の
ディレクターやダンサー達でした。
「まさみの目は輝いていたよ」「日本からやってきた踊りの妖精だよ」「本当に綺麗な表情だね」
と褒められたときに、信じられない言葉ばかりでした。日本では全く褒められることが無かった私がどうして??と。とても嬉しかったので「Thank you!!」「Thank you!!」と唯一知っている英語をひたすら大きな声で相手に伝えてから、英語も楽しくなりました。きっかけがあってからは英語とか日本語とか気にするよりも、相手と自分が通じているのか、繋がっていられているか、という感じになりました。
自分を知って欲しい、相手を知りたい、共通する感覚を得たい、知りたい、このような気持ちがどんどん大きくなっていくことが積極性や会話力に繋がっていくのではないかと考えます。
-日本でレッスンをされていて今後、オーストラリアや海外へ留学をされる方へアドバイスをお願いします。
そうですね、重複するようですが日常生活をちゃんと送ることですね。例えば朝起きたら「おはよう!」と挨拶をする。何か手助けしてくれた方へすっと「ありがとう」の一言がでる。分からないことがあったら人に聞いて問題を解決する。など、当たり前と思っていることをしっかりまず身につけることですね。特に挨拶を忘れないことはとても大切ですね。挨拶からすべてが始まることはたくさんありますからね。
あとは、違う環境に行くのですから今までといろんな事が違って見えたり、知らないことがあったりするのは当然です。無理をしないでまずはその状況を受け入れることです。日本では失敗に感じたりしたことがなかったことが、上手くいかなくなったりとかもあります。こんなふうに遭遇することを「ああ、こういうことあるんだなあ」「ちょっと今までと違うなあ」この程度に思って自分にとっての勉強だと思って受け止めることですね。そして同じことが起きないように応用や準備をする、起きたとしてもあわてずに振り返る、考える というふうにして少しずつ新しい環境や生活に自分を慣らしていくことですね。
簡単なことではありません。いっぺんにできることでもありません。言葉が違う、人種が違う、環境が違う、習慣が違う、違うことばかりですから大変なのが当たり前なのです。
でも、それらは日本にいたら出来ない貴重な経験であり、人生の財産になる時間です。人生の宝物の時間を持てる自分自身に自信をもつことです。
日本人は優秀ですよ。私たち日本人の持っている勤勉さは何か大きな目標を達成するためのものすごい武器ですね。
西洋の伝統芸術であるクラシックバレエだけでなく、芸術が私たちの心に与える感動や心境は、形となってこそ残ることはないですが一人一人の心に刻まれる人生の宝物であると考えます。
これからの羽ばたく若い芽の皆さん自身が、人生の宝物を自分自身で掴んでいくことをどんどん楽しんでいただきたいです。
-ほんと貴重なお話どうもありがとうございました。
ありがとうございます。
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